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 容姿に対する劣等感―肥満・禿(はげ)

与えられた肉体は、実は自らが選んだもの。
心の輝きはその人の容姿にすら影響します。
その意味は・・・。

「人は見かけじゃない」という言葉を聞いても、やはり“見かけ”は気になるもの。その肉体をまとって地上生活を送るのですからまさに一生のおつきあいをするものです。
そもそも地上とは、心を、言葉や行動で表現して形とする場です。表現されたその言葉や行動に意味を見出しこそすれ、その声(言葉を伝えるためのもの)や肉体(行動を表現するためのもの)そのものには“評価”や“優劣”は、(本来は)ないはずなのです。しかし、人の心の傾向がそれぞれ違うように、人の容姿もさまざまです。そこでは多くの人から好感を持たれるものと、あまりそうではないものとの違いはあります。では、なぜそういった“違い”が現れることになったのか。それは、今の地上の人々があまりにも“違い”ということに心をかげらせるからこそなのです。他の動物と同様、その姿形に大差がなくとも良かったはずなのです。しかしそこであえて“違い”があるのは、それを越えた「心」をもっともっと地上のあなた方が見ていかねばならないからなのです。
本来、霊界では、心そのものが形を成します。よってその心の輝きや傾向が、そのまま、その人となって現れるのです。しかし今の地上においては必ずしも心と形とは一致してはいません。そこで、どちらが優位なのかをあなた方は学ばねばならないのです。心で生き、心でつながり、心で関わり合うべき“人”にとって、その器である肉体は、「あくまで二の次なのだ」ということをです。

今、あなたが自らの容姿について悩んでいるのだとしても、それを「気にするな」とは言いません。しかし“見かけ”を変えることよりも、いかに自分の心を輝かせていくかを大切にしてほしいことは伝えます。もちろん、今の社会は、「形」や「見かけ」によって評価が与えられたり認められたりする仕組みのなかにあります。そこではあなたは傷つき、嫌な思いを重ねることになったかもしれません。しかし、そうなって、あなたがさらに心をかげらせ、自分を否定的に見ていくのか、それとも、人にどう見られるかを越えて(自分がどう思うかも越えて)人としての優しさや正しさを失うことなく生きることができれば、あなたの表情・仕草・そして肉体の様子までもが必ず変わります。なぜなら、輝きや喜びを発する心にふさわしい容姿のあり方として、肉体が反応するからです。どんなに“形”が整っていても、その人が心にかげりを抱き、喜びをもって生きていなければ、そこでは、それは自ずと容姿に反映され、目にする者にそれが伝わるのです。「好感」とは本来、そういうことなのです。あなたは「どうして自分はこんなふうに生まれたんだろう。誰々のようならよかったのに。」と思うことがあるかもしれません。しかし、あなたのその今の容姿は、あなたが自らの心を輝かせるために、自ら選びとったものなのです。もしも形を変え、装い、違う自分になろうとしても、あなたの心のままでは変えることはできません。形を変えたことによって自信や喜びがもたらされたとしても、「与えられていたもの」を否定し、手を加えたことの埋め合わせは後々、あなたが負わなければならないのです。“見かけ”に対する価値観や評価は、絶えず変化するものです。今、良いとあなたが思い、悪いとあなたが思うものは、決して不変ではありません。けれどもずっと変わらないもの、人々から愛され、尊重され、大切にされるもの、それは“心”なのです。<br>あなたもそのことにやがて気づくはずです。それがいかなる機会にそうなるかは別として。「やっぱり心が大切なんだ。」と気づく時が来ます。けれども、それは早いに越したことはありません。なぜなら、それによってあなた自身が、心を輝かせ、自信をもって生きられるからです。

しかしながら、さまざまな心のありようが、肉体には反映されるのですから、それがその人の“悩み”として抱えていることに重なる場合もあります。単に、「容姿より心」では済まされない問題がそこにはあります。

* 肥満について
心も体も見えないエネルギー、見えるエネルギーを常に循環させています。取り入れ、いきわたらせ、排出(浄化)する、という繰り返しです。
肥満は、肉体において、その循環に滞(とどこお)りが生じ、蓄えられることに偏ってしまった状態です。これは、“食べ方”や“食べ物”のみに原因があるのではないのです。それを“心”からみると、十分な「排出」ができない何かがそこにある、と言えます。自分の心を出すことができない、人に見せられない、見られまいとする、あるいは抑えようとする、そういった「とどめる力」が働いている時、その人の心はどこかに滞りがあるのです。それをあなた方はストレスと呼びますが、それが肉体に作用すれば、取り入れたエネルギーをためこむこと、外へ出さないこと、というようになります。ためこむ方が出すことよりも多いのならば、それが重なって肥満へと傾いていきます。
(自分の心を出しきれない人の心が肉体に反映されるパターンにはいくつかの種類がありますが、肥満はそのひとつの形なのです。)
自分の気持ちに従って、何ものにもとらわれずに生きることはとても難しいことです。逆に今の社会は、自分の気持ちを出しにくくなる条件がそろいすぎています。まわりへの配慮や気づかいを失わず、しかも、ありのままの心で生きられるような状況が作られていくことが理想です。今すぐそうはならなくとも、そういった心で生きようとあなたが強く望み、そうしていくことが大切なのです。「まわりの目に心を左右されず、ありのままの心で」ということが、「肥満」という肉体の状態を持つ人のもうひとつの意味でもあるのです。

*やせすぎ
この場合は、あなたが必要としている心のエネルギーが、あなたには十分もたらされてはいない、または、与えられていてもそれに気づいていないために受けとることにならない、ということが原因です。そのほとんどが全て「愛されていること」であり、「大切に思ってもらっていること」です。
心が求め続けているのに与えられなければ、心は渇望します。飢えます。
肉体はそれを正直に反映します。また、与えられているのに、向けられているのに、そこに心の焦点が合わなければ、せっかく出されている食べ物を口にしないのと同じです。人は誰もが愛し愛されて生きたいと願います。あなたは決して誰にも愛されていないなどということはありません。しっかりとまわりを見れば、あなたを大切に思ってくれている人は必ずいるのです。そのことに気づき、そのことを心から喜ぶことができれば、愛されている幸せを実感できるでしょう。それが、“心”にとって何よりのエネルギーなのであり、それが満たされることは肉体においても健やかな状態として表現されることになるのです。

*禿げていること
特に男性にとっては、これは大きな問題でしょう。“恐怖”とすらなってしまうと、多くの人は思っています。本来ならばこれもその人の心とは関係のないもの、“見かけ”のひとつです。しかし、それを悩みとしている人がいること、それがその人の心に大きく影響する可能性があることは否定できません。
“髪”は絶えず成長します。肉体の細胞は次々と生まれ、次々と死んでいきますから、まるで、“変化”がないかのように思えますが、“髪”はそれらとは違います。より、人の目に触れるものですし、隠しにくい部分でもあります。(だからこそ、気になるのですが。)
“人”が絶えず注がれているエネルギー、それはいわゆる“神”からの慈しみのエネルギーです。それはその人全てを包み、注がれているものであり、その人の心と体と魂の健やかさのためのエネルギーです。
同時に“人”は地上では“人”とともに生きるわけですから、“人”との関わりのなかで心を向け合い、注ぎ合って生きています。その“心”の要素のなかの“慈しみ”は特に女性特有のエネルギーです。よって女性には自らの内に“慈しみ”の種を持っているのです。それが女性が「はげにくい」ことに反映されてもいます。要するに、「慈しみ」のエネルギーが、その人の「心」に見合っただけ与えられているかどうか、が問題なのです。人にはそれぞれ求めるエネルギーの大きさや強さがあります。その求めに応えるだけの「慈しみ」の心が向けられているかどうかなのです。ですから、個々人で、禿げる、禿げない、の違いがあるのであり、治る者もいれば、進む者もいるのです。そしてこれは、その人の心が求めている以上に注がれれば、治っていくものなのです。
しかし、そこで気をつけてほしいのは、禿げている人が「慈しまれていない」ということではない、ということです。その人の心が求めるに応える以上の、ということを忘れないでください。そしてそれは、本人のみの問題ではなく、その人と深く関わる者との間にある“心のやりとり”との関連があるのだということを認識してください。改めて心を向け合うきっかけとして、「その人の髪がうすくなっていくこと」「失われていくこと」を見て頂ければよいのです。また、そうである人に対して、目を向ける人の心に、「慈しみ」の心が共鳴すれば、それは、その人にとって大いに役立つこととなるでしょう。