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 ■0034■「祈り」についてのメッセージ (01・3・20)

地上の人々が思う「祈り」は、本来のものとは違ってきています。ここでは、「祈り」とはどういうものなのかについて、そしてそれがどういう意味を持つのかについて伝えます。

  「祈り」とは

「祈り」とは、ひたすら神の心に添おうとすることです。限りなく神のこころに近づこうとすることです。ですから「祈り」は、自分のためになされるものではありません。神のこころとは「全てを喜びとすること」です。それに添う、とはどういうことなのでしょうか。
地上に生きるあなた方は、「喜びの心のみ」で生きることはまだできていません。絶えず何かで心をかげらせています。過ちも犯します。まだまだ至らない存在です。しかし、そういった部分も含めて、あなた方は、守られ導かれ、愛されているのです。神はあなた方の全てを喜びとしています。なぜならかげりも至らなさも過ちも、やがて喜びに変わるものだからです。だとすれば、あなた自身だけでなく、あなたが目にするさまざまなもの、状況、起こる事象の全てがいずれは「喜び」に変わるもののはずです。全てのものが「喜び」へ向けて"変化"していくことが神の意志です。そこに心を合わせていくことが「祈り」なのです。

「自分が〜になりますように」、「自分に〜がもたらされますように」というのは、希望や願い、欲求ではあっても「祈り」ではないのです。なぜなら、あなた自身の希望や願いはあなたの意志とあなた自身の力と努力とによって実現しようとすべきものだからです。
けれども、自分以外のことについてはそうはいきません。どんなに力を尽くしても限界はあります。それが身近な人ならば、できる限りのことをしてあげることはできます。しかしそれでも、及ばない部分があります。まして、世の中の仕組み、世間の風潮、事件や事故、対立や争い、貧困、蔓延する病など、直接関わることのできないものは山ほどあります。何とかしなくては、このままではいけないという気持ちがあっても、手を出せないものです。間接的にでも役に立てることがあるならば、それはできる範囲で精一杯したらよろしい。でもあとの今すぐにはどうしようもない部分に関しては「祈る」しかありません。人々の心が安らぐこと、癒されること、平和がもたらされること、飢えや渇きがなくなること…。もたらしてほしいと願う「喜び」を神のこころに求めるのです。
 
あなたひとりの祈りが瞬時に聞きとどけられるとはあなたも思わないでしょう。しかし、自分の思いが神に届いているとは思うでしょう。祈りとは、自分の都合や自分だけの気持ちをはずした、あなたの心と霊界・神とがつながることです。人の心が霊界に最も近くなることです。普段は足かせとなっている「自分」や「自分の気持ち」をはずした心がなんと美しいことか。
そこに霊界や神からのエネルギーの通路ができるのです。たとえ一筋であっても、それは神からの光を地上に降ろすものとして確かなものです。そしてあなたと同じような思いの祈りを捧げる人は地上にたくさんいるのです。同じ祈りのエネルギーは共鳴し、増幅してさらに大きな通路となるのです。同じ祈りを捧げるものが多ければ、それだけそこに注がれるエネルギーも大きくなる、ということです。
祈りの内容がすぐに、直接的にかなえられるかどうかは別にして、こうして流れ込んでくるエネルギーは、必ず何らかの「変化」をもたらします。いまだ形には現れないところでの変化であれば、それが誰の目にも分かるようになるには時間が必要でしょう。しかし、何ひとつ無駄なことはないのです。がっかりしたり、あきらめたりを、たやすくしないでください。

  実際に「祈る」ときに・・・ 

「祈り」に形はありません。決った言葉や時間もないのです。自分の心をできるだけ静かにしてください。"一心に"という心の状態は必要です。そして、素直に神に求めるのです。言葉に出してもいい、心の中で思ってもいいですから。
どんなに誠意を尽くしても気持ちが通じない相手のことを祈るのならば、「あの人が私の気持ちを分かってくれますように」ではなく、「あの人が、人から向けられる気持ちに気づき、それを喜べますように」です。その人のために祈るのです。
悲惨な事件が起きてそこで傷ついた多くの人たちがいたならば、「その人たちが希望を持って生きられますように」あるいは「一日も早く心の痛みが和らぎますように」という祈りになるでしょうか。
対象となる人(たち)に本当の喜びや幸せがもたらされることを一心に祈る時、あなたは「自分」を手放しているでしょう。霊界で生きる者たちの心とはそういうものです。人の喜びを自らの喜びとして生きる心です。

「祈り」とは、何もできない自分を嘆く結果としてなされる、そういうものではありません。自分の力の及ばないところに関して、霊界や神からの援助を要請する、積極的な求めなのです。ですから、「祈りましょう」と言うのなら、それは「強く神からの援助を求めましょう」という呼びかけなのです。そこに心を合わせる人たちが、「自分たちには"祈るしかない"」という気持ちで祈ったとしても、それは何もできない自分の逃げ道であるかのようなエネルギーにしかなりません。そうではないのです。「直接何もできない。関われない。でも、祈ることはできる」のです。その意識の置き方の違いがどのくらい大きいものかあなた方には分からないでしょう。
確かに、「何とかしてあげたい」という動機は同じです。そこでは地上にひとつ明かりが灯ったことになりましょう。しかし、そのあとの思い方、「何もできないから祈るしかない」のか「何もできないが、祈ることはできる」のかでは、その明かりから伸ばされる光の筋に違いがあるのです。私ども霊界の者たちの意志も、神の意志も、消去法のようなものではありません。積極的に選びとり、動かそうとしていくものです。その意志に共鳴できるのは後者なのです。ですから、「祈り」の意志は、積極的な関わり方なのだと、ここで認識してください。

「祈り」は「自分」というものをはずした心でなされるもの、と伝えました。「自分のためのもの」ではない、と。ここでもし、あなた方が自分自身の至らなさ、未熟さを知ったうえで、「私を導いてくださいますように」という心を霊界や神に向けるのであれば、それは「祈り」だと言ってよろしいでしょう。なぜなら、謙虚に援助を求めること、自らの学びを進めるための導きは常にあなた方に向けられていて、それをさらに求められることは霊界側にとっても神にとっても喜びであり、また、そのこころに添うことだからです。
大事なのは、どういう動機によって祈るか、に尽きます。今まで以上に導きを求めるのは、今まで以上に人として成長し、人の役に立つため。もしも能力を求めたとして、その人の動機が「その能力を全て貢献のために」という全くくもりなきものならば、それはメ願いモよりも"祈り"とみなしてよいものとなります。動機も、もたらされる喜びについても、全く「自分」(自分のため、自分の都合)が入らないものならば、それは「祈り」と言えるのです。(もたらされるものは、自分が喜ぶものではなく、それを分かち合い、分かち合うことを喜ぶためのものなのです。)
真剣に求めてみてください。今ある自分の至らなさも未熟さもありのままに見たうえで、力ない自分であっても人々の喜びのために貢献できますように、と。そのために導いてください、と。